PART2「夢を紡いで」
第二章:志
亡き先代社長の意志を若き承継者へ・・・
苦い思い出とともに
先代のJ社長のお喋りは見かけによらず早口で話しだしたら止まらない。相変わらずの細い体だが、一代で会社を築き年商も数十億円となった。J社長の関心と悩みは事業承継であった。自分自身の体調を鑑み次に承継するタイミングや方法を私に相談されていた。J社長の事業への想いを分かち合うために、創業時から今日まで、そしてプライベートの話を幾度となくしてくださった。復帰後間もない沖縄を裸一貫で朝から晩まで、沖縄中を安く仕入れるために駆け回り、売りさばいてきた活力は、目の前の小さなJ社長からはなかなか創造もつかないものだ。しかし、高齢ながらも現在も風雨や台風など関係なく365日、現場に出て指揮する姿は経営者としてあるべき姿であり、心から敬意を表する姿だ。J社長のために、私もきっちりと事業承継を成功させねばと心に誓った。
自社株式の対策は予想以上に難航した。数字だけでは割り切れない家族間の気持ちや対応があるので、J社長の気持ちを推し量りながら、次の経営者へうまく株式を移転することができた。
J社長はその間も体調が悪いことも多く、入退院を繰り返していたが、退院した際には気丈な姿と口ぶりで、会社のことを心配していた。緊急入院が何度かあり、危急時遺言の手配をしたり、一時回復して贈与や遺言の準備をしたり、それぞれの局面で様々な事を想定して対応に備えた。それについてJ社長は相変わらず、病気のことで一切愚痴を言わず、仕事のことだけを話されていた。どこまでも経営者として姿なのだと、見守る私も胸が熱くなる。
J社長の健闘虚しく初夏のある日に亡くなった。最後にお目にかかった日は、ベッドで体を起こされて、私に握手をしっかりされた。「よろしく頼むよ」と。J社長との事が走馬灯のように思いだされ目頭があつくなった。
私はJ社長から託されたことをしっかりやらねばと、さっそく取り掛かった。事業の安定と存続を最優先にし、次の経営者が盤石な体制でスタートができるようにと。
先代の思いをどう継ぐか
しかしながら、新社長と意見が噛み合わないことが出始めた。先代社長から直接「こうしてくれ」と言われていた私には、少々理解し難いことだったので、新社長にそのまま従うわけにいかず、意見してみたが結果的に話は平行線に終わり、顧問税理士を降りることにした。
創業者の思いを生前から十分に伝わっていたか、希望する経営の形は具体的にどのようなものか理解して継承できているか、事業承継の奥は深い。
新社長にも新たなビジョンがあり進まなくてはなるまい。それも理解できる。しかし、J社長と固く交わした握手の意味がそれではなかったのだ。事業承継の難しさを税理士40年目に改めて噛みしめた。
この山を乗り越えてみよう
北谷事務所を開設して5年が過ぎ、中部方面からのお客様にも認知いただけるようになった頃、大きな相続案件が私のところにきた。
税理士を40年やっていても、相続の事例はひとつとして同じものはない。一人一人顔も違うので当たり前と思うかもしれないが、40年の経験値を持ってしても、目の前に立ちはだかる山にぶつかる事はある。
30年来の税理士友人である大阪のS先生にセカンドオピニオンとしてついてもらいながら、チャレンジすることにした。この山を乗り越えてみよう。
さて、ここからが難題の数々にぶつかることになった。山林調査や復帰前に基地だった場所の特定や、埋設物の有無の調査、騒音被害の検証や証拠集めなど東奔西走した。集めた資料はファイル15冊にもなった。沖縄県公文書館の方は、足繁く通い資料をコピーしていくので、「一体、何のお仕事ですか?」と首をかしげていた。当初は点だった事実が次第に資料を繋ぎ合わせながら、時代背景を紐解き事実に近づいていく、ようやく全貌が明らかになると、息を飲んだ瞬間、出てきた写真は黒塗りの米軍の検閲にあった資料だった。沖縄の悲しい歴史と共に苦悩も封印されたかのように。
大きな山は今なお、私の前に立ちはだかり決着がついていない。けれど、沖縄の税理士としてとことんチャレンジしてみようと思う。
再調査、不服審判所への審査請求・・・険しい道のりだけど、納税者のために税理士としてベストを尽くしたい。